今際の際に遺す言葉なんてなかった
最近2年前に亡くなった父のことをよく考える。
というのも、父の死をきっかけにして母が弱っているからだ。
食事もずいぶん適当になった。
あまり会話のない夫婦で、別行動が基本だったけれど、連れ合いがいなくなるのは相当にストレスだったらしい。
父と母はどちらかの死後のことをまったく話し合っていなかったんだな、とわかる。
父は自分の年金や保険の書類やネット証券等のパスワード類はきちっとまとめていた。
でも母はそれをまったく把握していなかった。
それじゃ意味ないんだといいたい。
よくドラマや映画の今際の際のシーンで、亡くなる寸前のひとが残される家族に向かって語りかけるシーンがあるけど、現実にはそんな悠長な時間はない。
モルヒネで意識はほとんどないし、がんによる疼痛やせん妄もひどかった父と最後にゆっくり話し合えるわけなかった。
父は仕事で忙しくて私が子供のころから会話はほとんどなかった。私は娘だけど彼が何を考えているのかよくわからなかった。友人関係も、仕事関係もまったく知らなかった。
だから死に際になっていきなり「あっておきたい人はいる?」とか「いっておきたいとことはある?」なんて絶対にわざとらしくてきけなかった。家族としての信頼関係がない証拠だった。
せいぜい「今日食べたいものはある?」くらいが関の山。
死の病床にあるひとと重要なことを話したかったら、その人が健康なうちから、なんでもない日々の生活から、小さなコミュニケーションを積み重ねていなければ、ああいうとき何も話せない。
今になって「なんでそんなに早く死んじゃったの?」とよく考える。
やりたいことはたくさんあったはずなのに、痛みを限界まで我慢してあっという間にがんに殺されてしまった父。彼が何を考えていたのか、いまでもわからない。
それがくやしくてたまらない。